名探偵のいない密室

出会う前からの長いお別れ

火のようにさびしい刀がいて

こんにちは。今月の頭にいった福岡一人旅が楽しかったので、紀行文を書こうと思ったら、ほんのちょっと入れようと思った長谷部くんがどんどん割り込んできてよく分からないものになりました。これ…ほんとになんなんだろ…。でも頑張って書いたのであげます。副題は長谷部くんと行く福岡市博物館の旅。私の“長谷部観”がもりもりに詰め込まれているのと、本編の回想のネタバレがあるので、あらゆる地雷持ちの方にはオススメしません。無駄に長くてポエティックです。ご了承ください。我が本丸の長谷部くんのカンストのお祝いと、極への期待、そしてジョ伝へのときめきをこめて。

 

 

  降り立ったホームには人が疎らで、今がひどく中途半端な時間であったことを私に思い起させた。関西から二時間。長いようでひどく短い旅だった。いつもの癖で鞄にぎゅうぎゅうに詰めた単行本を開く事も無く、私はずっと新幹線の窓の外を見ていた。小さくて角のまるい窓からは景色が等間隔で飛び去って行く。目に写るのはありふれた景色ばかりだったけれど、私は飽きもせず外に目を向けていた。考えていたのは彼と出会った時のことだった。
それは7月が始まったころのことで、私はそのときのことをよく覚えている。なにせ、彼と対面することをずっと待っていたのだ。気配を感じて、ふと息をとめ、振りむくとすぐそこに彼がいて、華美ながらも上品で、それでいてどこか禁欲的な装束を纏いどこか誇らしげな様子で、静かにこちらを見ていた。わたしは咄嗟のことで、何も言えず、ただ魅入られたように彼を見ていた。そんなわたしを見かねてか、彼は穏やかな口調で名乗った。その声は生まれたばかりの薄氷をのせた涼やかな風が耳をくすぐるような、そんな、繊細でうつくしい声をしていた。私は無力な病人のようにおろおろと立ちすくみ、彼を目の前にして押し黙ってしまった。彼には力のないものをそんな風に畏怖させる、不思議な魔力があった。淡く柔らかそうな髪も、ぴんと伸びたしなやかな背筋も、軽く開かれた薄い唇も、彼を構成するすべてが彼の存在を肯定するかのように堂々とそこにあった。雄々しい、とでもいうのだろうか。彼は自分の存在に一度たりとも疑問を感じたことがないのだろう、そう思わせる風格があった。彼は押し黙ったままの私の方を向き、二三度瞬くと、あとは興味を失ったかのようにすっと目を落とすと、それきり何も言わなかった。私は、失望されてしまったかしらん、と弱気な考えを頭に浮かべて、もう一度勇気をもって彼の瞳を見た。髪と同じ淡い色をしたまつげに縁どられた瞳は、春に咲く鮮やかな藤の花の色をしていた。その瞳は使命に燃えた炎を灯しているのに、何処か空々しさを感じさせた。彼は目の前にいるというのに、私は、遠い国で起きたことのように、他人事に、なぜか、さみしい刀だ、と思った。
 博多駅北口を下りると、人が随分込み合っていて、不意のことに面食らう。滅多にこない場所であるから、意外な人の多さに驚く。流石、九州の中心地、といったところだ。自分が住む町では滅多に遭遇しない人ごみだ。父に借りたキャリーケースを慣れない手つきで引きながら、iPhoneの示すとおりに歩き出す。目指しているのは博多めん街道というラーメン店が集まった駅ビルの一角だ。北口から右手に折れ、筑紫口という表示に従って進むと、お土産屋が集まる駅ビルの入り口に辿りつく。そのまま突き当りまで進むと、短いエスカレーターがあり、上がりきると目的地だった。腕時計を見ると13:00を過ぎた頃で、お腹も随分減っている。目に入った「博多だるま」という店舗に足を向けると、ラーメンと小餃子のセットの食券を買い、店員に手渡した。待っている間手持ち無沙汰だったので、それにしても変わった名前だ、と言ってみる。聞けば最初の主が失敗した家臣の茶坊主を机ごと圧し切ったことが由来だと言う。それを語る彼は苦々しい顔と声音を隠そうともしない。それに気づいて少し笑うと、よほど因縁が深いのか、不機嫌にも、下の名前で呼ぶようにと進言されてしまった。なんだかそれでは、おもしろくないなあ、とごちていると、紺色の前掛けをした店員が、少し乱暴にラーメンの鉢と餃子の載った小皿を置いたので、慌てて箸を取った。まずは麺をたっぷりのスープと絡めて一口啜る。ガツンと濃い豚骨の風味が訪れるが、かといってしつこくない。なるほど、これはいくらでもいけてしまう。蓮華でスープを掬い、飲み込むと、空腹を訴えていたお腹をじっくりと染み渡って行くのが分かった。間髪入れずに一口餃子をかみしめると、じゅわっと溢れる肉汁とあっさりしたタレが舌の上で絶妙にまじりあい、満足のあまり小さく唸り声をあげてしまう。思っていたよりもお腹が空いて居たようで、15分足らずで流し込むと、最後はきりっと冷えたお冷で締めた。
さて、お次は今回の旅のメインイベントである。駅ビルを出て南に進むとバスの停留所に向かう。室内のため、気楽に待っていられる。西鉄バス302系統の列に並んでいると15分足らずで白と青のカラーリングのバスがやってくる。発券した紙をとって乗り込むと、空いた後方の窓際の席に座った。窓際の席に座るのは、幼い頃からの癖だった。何をするでもなく、ただ外を見ているだけなのだけれど、変わっていく街並みに目を向けているのは、なんとなくワクワクする。慣れない土地ならば、尚更。ふと、彼もこの街並みを見ていたのだろうか、と思ったけれど、すぐに考え直した。彼がここへ訪れたのは今から500年近く前のことである。当然、街並みも随分変わってしまったことだろう。彼がここへ初めてやってきた日のことを想像しようと、少し目を瞑ると、私はいつの間にか、眠ってしまった。

 彼がそばにいて、眠っていると、いつも頭の中で流れる曲がある。それは軽やかさの中にある凛としたうつくしい旋律が耳に心地よく、なんだか戦いの最中にいる彼の、凛々しい後ろ姿を見ているときのようで、私はとても好きなのだ。だけど、そのメロディは、つよいだけではなくて、切ないくらいの彼のよわさを内包していて、ぼんやりしていると、瞬く間に消え去ってしまうほどの短い間なのだけれど、じっと息を潜めて聞き入っていると普段は饒舌ではない、不器用な彼の生き様を、どんな言葉よりも、真っ直ぐに伝えてくれる。彼が生きた数百年の積み重ねが、私を圧倒させて走り去ってしまうような、鮮烈なきらめき。その音楽は私をひどく安心させる。

 目を覚ますと、降りるバス停の一つ前に停車していて、数分うたた寝をしていたのがわかった。頭のなかで流れていた音楽はとうにやんでいて、疎らな人々のささやかな息遣いが、静かな車内の中を漂っていた。私は財布から小銭を取り出し、停車のボタンを押すと、荷物を確認した。「博物館北口」で降りると、どこにでもあるような、市内の一角だった。コンクリートの道をナビの指示通り左折する。このまま直進すると目的地だ。私ははやる胸を押さえて、先ほどの話を続ける。彼は何も言わない。織田信長は戦国時代の三英傑に数えられ、歴史上始めて天下を取った人だ。そのような天下人のもとで愛刀として使われたころの彼は今とどう違っただろう。きっと主に使われることを誇りに思い、今以上の忠誠で織田に仕えていたに違いない。今ほどとげとげしい物言いはしなかっただろうし、もしかしたら信長に心酔していたかもしれない。けれども、わたしには想像がつかない。彼が、信長に仕える姿を。そういえば、以前、馴染みのある刀と彼が話していたのを見た。本能寺−織田の終焉の場所を訪れた時のことだった。織田に仕えたことを誇りに思う刀は、その場所を見て、ひどく辛そうな顔で体を縮め、悲鳴に似た呻きをあげた。彼はいつものように、冷たい微笑を浮かべたまま、静かに、自分たちにはどうすることもできない、と言った。それはあきらめだったろうか、それとも安堵だったろうか。かつて自分をそばに置いた男への、復讐とも、弔いともいえない、冷たい笑みは、私を深い思案の渦に投げた。「人の生は歴史の流れからすると一瞬だ。生まれたらいつかは死ぬんだよ。」彼は決して過去を振り返らない。その鋭利で冷たい刃先で、前だけを見据えている。

ひどく遠回りしてしまったけれど、果たして目的地は、そこにあった。福岡市博物館。広大な敷地の中で、堂々とした威厳をもって、その建物は立っていた。あまりよくない天候を気にしながら、ドームのように丸みを帯びた建物の入り口を抜け、正面の大きな階段を上がると、展示室が見えた。学生料金、150円を手渡すと、受付の女性が二つの展示室を指さし、大きな展示室は常設展示、小さなほうは企画展示をしていて、今は黒田家の婚礼についての資料が展示されていることを教えてくれた。お礼を言って、スーツケースをロッカーに預けると、小さな鞄一つを肩から下げるだけになってしまい、なんだか身軽になっただけではなくて、急に心細くなってしまった。渡されたリーフレットを鞄にしまいながら、展示室の廊下に足を踏み入れると、そこは案外にぎやかで、子供たちの笑い声や、母親の心配する声があたりから聞こえた。そこでやっと緊張が解け、ふうと息をつくと、黒く仕切られた展示室に入った。不自然に照明が落とされたそこは、この博物館の目玉でもある、国宝の金印、「漢委奴国王」が重厚なガラスのケースの中に展示されていた。ケースの底には鏡が貼られていて、印に掘られた文字が読み取れるようになっている。歴史に疎い私でも知っている、その小さな金でできた印は、不思議な厳かさで鎮座していた。じっと見ていると、吸い寄せられてしまいそうな、言葉にできない歴史の蠢きを秘めている。ものの価値というのは、きっと、目に見えないところにあるのだ。だから私たちは、価値のあるものを何度も見たいと思うし、手に入れたいと思う。人間の欲を刺激するなにかが、価値を秘めたものはある。ふと目をそらすと、自分が息をとめていたことに気づき、おかしくなって笑った。集中すると、ほかになにも見えなくなる質なのだ。展示室を抜けると、今度は明るいスペースが広がり、大きなガラスケースが立ち並んでいた。そこでは福岡県をはじめとした九州で出土した縄文や弥生の時代の石器や、武器、農道具が所狭しと並べられていた。そのどれもが、長い時を経て、今ここに集められていることを考えると、なぜか胸がぎゅうと締め付けられた。遠い時を生きた人々の営みというのは、とても愛おしいものだと思う。彼らにも家族がいて、生きる楽しみがあり、そして平等に死があった。死んだ子供のための甕棺墓などを見ると、理由もなく、さみしい気持ちにさせられる。
時代は進む。鴻臚館という変わった建物が海外の人々との交流に使われたことや、博多が琉球や朝鮮と貿易を始めたこと、など、自分の知らない土地の人々の生活を見ていくのは、とてもおもしろい。博多豪商が町を区画しなおしたことなどを知って、自分の知がどれだけ狭いのかを、改めて実感する機会になった。時代で区切られたブースの七つ目は福岡藩の時代と題されていた。この時代やっと、福岡という名称がこの地で使われるようになったという。その名づけ親となったのが、黒田長政公だ。彼は城と城下町を整備し、今の福岡の基盤を作ったといわれている。それによって、経済や産業が発達し、現代の福岡のにぎわいとなっている。不意に、彼のことを想い、横を見上げると、彼はガラス板の向こうの長政公の肖像を、静かに見つめたまま、身じろぎもせず、佇んでいた。彼はかつて長政公に仕えていた。そして、そのまま、この博物館に所蔵されている。彼は今まで決して長政公のことを語りはしなかった。私は、少し気になって、初めて出会ったときのように、少し屈んで、でも気づかれないように、彼の表情を伺った。すると、彼の肖像を見つめる藤の瞳が、一瞬揺らいだかと思えば逸らし、すぐに退屈そうに地面に目を落とした。私は彼の瞳に一瞬浮かんだ、彼に似つかない鈍い感情に気づき、自分でも訳が分からないほどに動揺して、口から出かけた疑問の言葉を飲み込んで、そのまま沈黙してしまった。
それから、近代、現代と時代は進んで行ったのだけれど、私はほとんど集中できないまま、胡乱な視線でそれらを流し見するだけに終えてしまった。常設展を出ると、残すは正面の企画展だけだ。私は、なぜか、重くなった足を引きずって、受付の女性に半券を渡し、廊下を進んだ。企画展は四つの部屋に分かれていた。部屋の外から見える、大きな駕籠が見え、惹かれて入る。中央に置かれた、大きな駕籠は、実際に名のある家の姫が乗って嫁いだというもので、中に描かれた源氏物語の絵がとても繊細だ。この中にいた少女はどのような気持ちで夫となる人のもとへ嫁いだのだろう。実感がまったくないほど、遠い世界の物語めいていた。ほかの二つの部屋では黒田家の婚礼に使われた着物や、嫁いだ奥方が嫁入り道具として持参したものの数々が展示されていた。そのどれもが華やかで、婚礼というものがいかに人々に大切にされた出来事だったのかがうかがい知れる。当時の婚礼というものはきっと、想像もつかないほど豪華だったのだろう。できることなら、その場に居合わせてみたかった、と決してかなうことのないことを想う。
最後の部屋は、意図的に残していた。というのも、この旅は、ほとんどこのために用意したようなものだから。そこには、彼の旧知がいる。入ってすぐに、あっと声を上げてしまいそうになった。そこにあったのは、あまりにもうつくしい槍だったから。私の、貧弱な想像の中の姿とは、比べるのもおこがましいほど、優美で大胆な姿をしていた。私は熱に浮かされたようにその展示に近づく。ガラスケースの向こうにあっても、こちらが息ができないほど、熾烈な激しさを灯して、すっと伸びた穂先の先まで誇りに満ちていた。思わず、瞬くのを忘れるほどだった。なぜこの槍はここまでうつくしいのだろう。そんな馬鹿げた疑問が浮かんでは、その豪快さを前にして、消えていく。漸くして、圧倒された心を、鑑賞にひき戻し、今度はその柄に目を向けた、息を飲むほど精緻な螺鈿の細工が柄を覆い、一種の美術作品にしか見えない。しかし穂先には実戦用いられた際の傷跡が残っていて、戦場で使われたことを裏付けている。これがほんとうに戦場で振るわれたなど、信じられるわけがない。昔の人は、なんと遊び心があったのだろうと深く感嘆する。これでは心が宿っても仕方がない。作られた愛情が、見ているだけで伝わってくるほどなのだから。穂先に掘られた倶梨伽羅文など、今にも動き出しそうだ。人を殺めるための武器が、こうまで美しく作られているのを見ると、いっそ残酷な気さえする。しかし、彼らは己の化身を振るい、勝利のために、敵を殺す。それが定められた営みであるから。そこに迷いなどあってはならない。迷うことはすなわち壊れることを意味する。
その槍-大身槍名物日本号は彼に気が付くと、どこか夢見がちな声で、相変わらず辛気臭いな、と口元に薄い笑みを浮かべて言った。彼は面白くなさそうにガラスの向こうの日本号を見つめたまま、微動だにしない。「お前、すぐ口にするのは右府さまのことばかり、なぜ黒田家の話をしないんだ?」それは、私の疑問でもあった。義理深い彼が、最後をともにした黒田家に、なにも感じていないはずはない。それに、長政公の肖像を見つめる目は、不思議なほど揺らいでいた。彼は一言、話したくはない、と端的にいって、もうそれ以上は語ることなどないといったふうに、目をそらす。彼らしからぬ返答だった。日本号もめんどうになったのか、そりゃいいがね、と投げやりに言う。「お前見るとたまに折りたくなる。黒田家には義理があるんでな」日本号の言う、くろだ、の三文字には深い愛情や、懐かしさが入り混じっていて、私は彼の心を知った気になった。彼は黒田家を愛していたし、今も愛しているのだ。その声に彼はつい、と白い頬を上げ、何かを言いかけたのち、すぐに飲み込んで、声を失ったように、押し黙った。次に口を開いたのはしばらくしてからだった。長政さまは、と言った。長政さま。私がこの名前を聞いたのは、初めてだった。聞いたことのない、穏やかでいて、疲れたような声だった。私は驚く。青年のように見える、彼の背筋の伸びたからだが、一瞬のうちに激しい木枯らしにさらされたように、ひどく老いたように見えたから。「長政さまは良い方だった。付喪神にあの世があるならばついて行きたかった。だができない。我々は人間より長くこの世に残る。だから忘れることにした」私は、自分の心が軋む音を聞いた。そんなこと、と口をついてでそうになった言葉ごと、口を手で覆って、私は展示室の壁に手をついて、自分の体を支えることしかできなかった。日本号はそうか、とだけ言って、それきり何も言わなかった。彼も、本当に良い方だったのだ、とだけ言って、紫の色の瞳をふいとそらした。彼が何を見ていたのかはわからなかった。

彼はいつもせわしなく働くことを望んでいた。よい働き、統率、規律。それこそが彼の心に安寧をもたらした。だけど、いつしか私は、彼が何を望んでいるのかが、分からなくなってしまった。彼の理想とするものは、私には、あまりにもまばゆい、はかないものに思えて、とんでもなく空しくなってしまった。彼がそれを信仰できるのは、長く生きる刀であるからに他ならない。人間であれば、理想と現実にどこかで折り合いをつけて、妥協して生きていくしかない。私は彼が刀として生まれたことを祝福した。彼は刀の身で、どこまでも果てしない理想を追っていくことができるのだと。けれども、この旅で彼の言葉を聞いて、私は確かに絶望した。彼の心はまるきり、人間だった。無防備で、どうしようもない、ぐずぐずの柔らかな生身の人間の心だった。気の遠くなるほど永い時を生きながら、あまりに崇高な理想を追いかけて生きるために、彼は、死んでいく主たちを、どこかで仕方がないと諦めながら、一人づつ、忘却の海に葬ることを選んだ。そしてまた、鋭い切っ先を敵に向けるのだ。それが、刀の体に、人間の心を宿した彼ができる、ただ一つの自分を守る術だった。自分の心を、悲しみから守ろうとするのは、いかにも人間じみた営みだった。わたしは、彼が経験した、全ての出会いのことを想い、そして同じ数だけの別れを想い、ひそかな絶望に身を沈め、薄情にも涙を落とした。自分のために泣いたのだ。

銀のスーツケースを見ているように言うと、お任せください、と声が返ってくる。お土産の店が密集したコーナーをうろうろしながら物色していると、SNSでよく見る黄色い箱を見つけ、即決する。家族と、友人と、仕事先と...と配る相手をカウントしながら、次々に買っていく。スーツケースに入るだろうか、下手すれば手荷物になるなあ、と考えていると、ふと遠くにいる彼の、髪のかかった、小さな横顔が見えて、何故だかハッとした。その目はまるきり、母親の手を離してしまった迷子のように、小さく揺らいでいたから。私は会計を急かせ、両手に土産を抱え込むと、自分でも驚くほど騒々しく、彼のもとに駆け寄った。顔をあげた彼の瞳にはもう、あの揺らぎは無くなって、ただただ驚いたような顔をしていたので、私は力が抜けてしまい、安堵と共に微笑んだ。
「待たせたね、」言うと長谷部は奇妙に顔を歪ませて、それから白い額に手を当てて、声にならない声で頷いた。スーツケースを引いて、外を目指すと、彼がのろのろと着いてくるのがわかった。―待てというならいつまでも。迎えに来てくれるのであれば。彼の歌うような声が、いつまでも耳に残って離れなかった。


福岡に住む知人に教えてもらった名店のせいろ蒸しのしっとりした食感に舌鼓を打ち、明日も早いと店を出ると、まだ夜というには少し早いのに、外はすでに日が落ちきっていた。近づき始めた秋の風が、親しげに体を舐める。少し身震いしてから、足早に歩き出した。街灯もない住宅街だというのに、妙に夜道が明るく、ふと空を見上げれば、見事な満月が私を見下ろしていた。意識的に月を見上げたのは、いつぶりだろう。月はまろい曲線を描いて今にも、ぽってりと落ちて来そうなほど、豊かだ。彼にも見てほしい、と振り向くと、私の数歩後ろをついてきていた彼が、薄明かりの元で、冷えた月光を浴びて、生気のない亡霊のように白い顔をして、こちらを見ていた。そういえばわたしは、彼が、月夜の下に立っているのを見るのが好きだった。怜悧なその頰に、ささやかで、柔らかな月光が当たって 、優しい丸みを帯びるのを見ると、たまらなく切なくなり、さめざめと泣いてしまいたくなる。孤高に佇む彼は、月の住人のように、暗闇が似合った。彼の薄紫の瞳は、昏く伏せられて、何故だか、はじめて出会った時のことを思い出して、どきりとした。あれから、私は、彼のために変われただろうか、彼の柔らかい心を尊重することが、できているのだろうか。少しでもその孤独を分かってやれただろうか。 多分それには答えがない。彼と私は、同じ心を持っているけれど、生き物として最早全く違う理の上で生きている。彼は長い時の果てに、いつか、かつての主たちを回顧するのだろうか。そしてその時、少しの間でも、私のような身勝手な隣人がいたことを、思い出すのだろうか。
次は一月に、君に会いに行くよ、と言う。きっと、そのうつくしさに対面して、また身勝手に涙を落とすのだろうけれど、それはもう、ほとんど私にとって、生きる、ということのうちの一つなのだから、どうか気にしないでほしい。彼はーへし切長谷部は、何も言わないけれど、薄桃の花びらを纏って、静かに微笑んだ。
なんとかわいい男だろうと思う。かわいくて、寂しい、刀。どこまでも、孤高で、甘えを知らない、しなやかな魂。できれば、彼が信念に殉ずることができますように。そして彼にふさわしい主が、彼を大切にして、忘れがたい出会いになりますように。と言っても、わたしはしかし、長谷部を愛しているから、どうか、彼が傷つくくらいならば、うまく忘れられるといい、とも願ってしまう。信仰を持たない私の、ちっぽけな、矛盾した願い。それが叶えば、どんなに嬉しいことだろう。多分、彼とこの先あゆむ道が、いつかは違うのかもしれない。だけど、私にはこの道を行くしかない。それは多分長谷部もそうで、その別れは避けられないけれど、求めることをやめられない。人は愚かで彼もまた愚かなのだ。
私はこの道を歩いて行く。幸いにも今夜は、明るい月が歩くべき道を照らしてくれる。私は歩を進めてホテルを目指し始めた。こんな身勝手な願いが、後ろを歩く彼に伝わりせんように、と祈りながら。

 

 

近況

 

炎の蜃気楼ってなんなの?まだまだ分からないので我々はアマゾンの奥地に飛んだ。(ツイッターはじめましたのでよろしければ仲良くしてください)